昭和40年07月13日 十三日会



 今椛目の皆さんに、神様が一番求め給うのは修行です。今、椛目の神様と云うとおかしいですけど、特に椛目の中心に、椛目の上に思いを掛けてくださっておる神様の願いと云うのは、椛目に御神縁頂いておる全ての信者氏子の上に特別の働き掛けを下さっておるんですけれども、氏子に信が無かったら火が点らないと仰るように、氏子がその火になり芯がなからなければ神様のお働きようがない。
 その芯と云うのは、ね、何かと云うと修行なんです。ですから私どもに今、神様が一番求め給うておられるのは修行だと、私御祈念にあの立たせて頂こうと思うたら、今でもそうですけど心臓ちゅうでしょうか、ドキドキドキドキしているんですよ。もう声も出されん位に伝わるんです。もう御祈念がてやっとでした。いわばあの息苦しくなるんです。神様にお願いさせて頂きよりましたら、そう頂きますから。
 はあこれも私の修行不足に対する一つの修行だとこう思うんです。だか今ら皆さんに神様が求め給うておられるのは修行と、しかもその修行がです、現在の椛目の皆さんの上に、どういう修行を求めておられるかと云うとですね、造営成就の為の修行です。御造営がスムーズにおかげ頂いて、御造営が神んながらに御神意のままに、神様がこういうようなものをと心に願ってござる。
 それがそのままに成就することのために、あいよかけよと神様と氏子が一心一体同体になっての働きというものがです、必要なときんです。ですからただの修行ではいけないということが分かります。どうぞいうなら神様の願いが成就しますことのために、それが漠然としておったのがです、もうここに御造営と云うことが焦点に絞られて、其のことのための修行なのです。
 ですから、もし皆さんが、今難儀を感じておることがあるとするならです、その難儀はもう全て御造営の為の授業だと御造営の為の修行だと切り替えられたらいいです。どんな修行でも。ただ今そのことで御礼申させて頂きよりましたら、十三日会にお引き寄せ頂くと云うほどしの人たちから椛目の云うなら選りすぐった信者ということになりましょうけれども、とばっかりはいかんです。
 せめて月のうち十三日会だけでもと、先ほど帰られましたけれども、佐世保の前田さんなんかそうです。夫婦の者が必ず十三日会に参ってみえる、もうとにかく親先生の顔をチラッと見たらもう安心と云うようなふうで帰られる。ね、と同時に例えば毎日、日参り夜参りをさせて頂いてもです、例えばあの私今日御心眼に頂きますのに『紫陽花の花を頂く時には調和と云うことをいただくんです。』
 『紫陽花には様々な色があるでしよう、それにですね、白々しい白の様な花がある、かというとこちらにはもう藤色か紫か解らん、それにもう濃ゆい黒々とした紫陽花がある』。それは例えば、今日私が申しますように、今椛目の神様というか言わば御働き下さる神様がです、椛目の全員に求め給うておられるのは修行だと、しかもその修行の目指しはね、御造営成就ということの為の修行だと、それを求めておいでられるのだ。
 いくら日参り夜参りしてますそれが自分のことの為の修行であっては今の椛目には値打ちは無いと云うこと。ね、あれも是れも一切が現在私どもが持っておる難儀でもそれを御造営の為の修行だと切り替えさせて頂く時です、ね、氏子に芯なければと仰るその芯が立つわけになる。今日私は、お道の新聞がまいりました。それに先覚(・・?)の方の先師を語ると云うのが。
 どうぞ皆さん。今日はもう四国の(・・?)と云う大変、非常に霊徳の優れた先生、御祈念力の非常に強い先生の事が今日から載っている中にです、もうこの先生を語るならです、先ずなんと云うても、あの熱烈な神様の前に向かぬかずかれたらそれこそ畳をこする様にして、一心に願われたあの願いの言葉だと云う事を、一番に書いてあります。もう非常に祈念力の優れた方であられた。
 まそれをそれを後で聞いておる者はです、どうぞ何何の氏子何何の氏子と願われる。はあ自分のことを(・・・?)耳を立てて聞いてみる、何何の氏子どうぞおかげを頂きますようにと云うて一心に願われるそれを聞いた後にです、はあ助かると言う気がしたと、皆がその先生の祈りの言葉と云うのを聞いて。というふうに熱烈であったか、勿論私はその熱烈な祈りも祈念も出来ませんけれども、それは生き方なんです。
 けれども祈りの中心をなすものはです、そこにあるでしようが(・・?)でしょう繁雄さん、あっあったあったこっちにあった。繰り返し繰り返し読み上げたその言葉は、一心に熱心に本気の信心に、真の信心にと声にして読まれていたと云うことです。これが祈りの、祈念力の素晴らしいこと・・・?その祈りのスジが素晴らしいじやないですか、どうぞ病気を治して下さいて云うだけの願いではなかった。
 一心に一心に、熱心に、本気の信心に、真の信心にとこういうよして読まれたということが書いてございます。どうでしょうかお互いそう言う様な信心がです、ね、しかも神様の願いが゛成就することの為にという漠然とした願いがここにしぼられた。それは御造営と云うことである。その御造営ということにです。お互い修行、一切の難儀がそのままそのための修行であると頂かせて貰い、修行不足のところをです。
 ただ今私が、今感じておりますように、心臓が止まる様な例えば難儀なです、これは修行不足を、神様は補うて下さる。今椛目の一同に求め給うのは、その修行である。しかもその修行は、個人の小さい修行ではなくて、大義名分に立つところの、ね、神様の願いが成就する為の、それも要約すれば、御造営成就の事の為の、修行がなされなければならない時である。
 又それを神様は求めておいでである時であるけれどももう十三日会は神様の願いが成就する日にです、椛目に御神縁頂く重だった人たちが合い集まって、信心の共励をなさして頂くでも、この中にでも、ね、白々しい人もあると云うこと、ね、崇高の人もあると云うこと、それこそその色が燃え立った空色か黒かわからんほどにその事に一生懸命の道を思いをこめておられる方もあると云うこと。
 それでも白々しいのでなく、くろ黒しいのでなくひとつに寄せて御覧なさい。どれがどれやらかわからん位に調和が取れて行くでしょう。これは信心の課程なのですから、私共の信心を振り返ってみて、私共がどの位ぐらいのとこの、紫陽花の色で云うならばです、白々しいところか(・・・・?)ところか、紫色に近いか、いや私の祈りこそあん中の芯のある真っ黒いような思いをその事に掛けておると云う様に、ね、
 それがこれであってはならん、あれであっては、ならんと云うことじゃないです。信心の課程なのですから、ね、十三日会に集まって来る人たちが、必ず皆立派と云うのじゃないです。いよいよ白々しいのもありゃ、濃ゆいのもあるですけども、自分の胸に手を置いてみてです、ね、是れではならんと、例えば白々しいと思ったら、次には言わば藤色ぐらいにはなるでしょう。
 藤色ぐらいこれではいかんと思うたら、あの紫色になるでしよう、先日私は菊栄会のかた達と一緒に、お食事をさせて頂だいたんですけど、そん時私ちょっと見たら、煙草を吸ってるのを見たら、(   )の黄色の煙草を吸ってる。ああたどん話し合うたんじゃなかろう、これはもう椛目中が、いっちよこの煙草は吸いなんなえ、煙草は吸うごと宣伝しちゃろうかと笑ったことですけれどもね、
 是れは椛目の煙草、『あの黄色の色は今中と云うこと。』ね、例えば、今一生懸命例えば自分の思いこそ、真っ黒になる様な、思いであると云う人でもです、まあだこれは今中だと云う様な気持ちなんです。そこに限りがない修行が求められる、今一?先生が自分の祈りを言葉に出される事をここに、読み上げました様にです、ね、一心に熱心に本気の信心に真の信心にと、ね、
 どうぞこのここんところ、一心に熱心に一心だけじゃいかんそれに熱心じゃなからないかん。その一心もただの一心じゃいかん、本気での信心に、ただ本気でもそれを自分のことに過ぎたんじゃいかん、真の信心に、ね、その真の信心とはその私が申します様なね、神の願いが成就のことのためにひと修行さして貰おうと云った様な信心こそ私は真の信心に成っていくのじゃなかろうかと云うふうに思うのです。
   おかげを頂きました。